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やさしい断絶

 

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傘木希美

自己に対する「あきらめ」と「やさしい断絶」の獲得,一個人の「(特定区間の)生」はこのとき完結される。生物室で,みぞれ(鎧塚みぞれ)が無理やり希美を抱擁(「大好きのハグ」)し,希美の好きなところを幾多も挙げるが,しかし,そこには「希美のフルート」が無かった。このとき希美はある種の「あきらめ」を得ることになるが,その後の希美の前向きな態度はどのようにして得られたのか。みぞれのは抱擁は一生懸命な希実への「好き」の気持ちであった。中学時代に内気な自分に手を差し伸べてくれた希美,オーボエという楽器との出会いを与えてくれた希美は(一方的に)特別な存在であり,彼女なしでは今のみぞれは存在し得ない。しかしながら,その「好き」(相手の好きなところを伝える)には「希美のフルート」が抜けていた。さきの抱擁シーンでみぞれから希実への「好き」のあとに,希美はみぞれへ「みぞれのオーボエが好き」だと,ただ一言伝えた後,三回「ありがとう」とみぞれに伝える。この「ありがとう」という言葉、このコトバを発するシーンにおいて、傘木希美、高校3年生の彼女の「生」という作品が完成されている*1。さて、「完成」とは何か。

その「あきらめ」というのは,「みぞれと対等であると信じ込んでいた自分」に対する諦めである。これは,言い換えるならば,「崩壊」とも表現できるかもしれない。その時点まで継続していたものの崩壊である。そして,この「あきらめ」を以て傘木希美という「作品」が完成される。心的に侵食されていた平行線な感情を剥奪されたのち,のぞみが新たな態度を得るとき,このとき,個人のある区間の歴史は「作品」として完成を見ることになる。「あきらめ」からの新たな態度の獲得,これを「やさしい断絶」とでも言ってみよう。ここにおける「断絶」は相手との新たな距離感の設定,相手への進入角度の再設定と言ってもいい。希美がその心に微かに抱いていた(これは三年生の春学期からはっきり表れたものだが)羨望や劣等感は「やさしい断絶」によって解消される。希美のみぞれに対する「ありがとう」は、山田尚子が言うように*2「額面通りの『ありがとう』」ではない。それは上記のような心的変容を含んだ「ありがとう」であった。「みぞれのオーボエが好き」というコトバは彼女の本心であろう。決して建前ではない。他者の残酷さと言うべきか,しかしながら,残酷だからこそ希実が「絶望」するという回路はここでは存在しない。ここでは他者(みぞれ)はやさしく受け止められる。対して,みぞれの「好き」が,一生懸命な「好き」であったのも間違いない。「希美の〇〇が好き」という,みぞれの言葉も彼女の一生懸命な気持ち、希美への「好き」である。合奏を終えた希美が穏やかでないと察したみぞれは,無理やりな抱擁で希実に「好き」を伝えた。そして,ここに「希美のフルート」が含まれていないのが作品として素晴らしいところであり,これが彼女の「あきらめ」の契機である。

みぞれの「生」は常に完結させられていた。それは相手への感情が、その場そのときで「終止」することを意味する。希美にとってはみぞれへの何気ない一言である挨拶や返答は,みぞれにとっては決して「何気なく」はない。みぞれは希美の挨拶や返答,一言一言に一喜一憂する。みぞれは希美によって毎回「完結」させられていた。対して,希実は,鎧塚みぞれという希美自身の「生」を継続させる存在を常に意識していただろう(=平行線な感情)。これは劇中劇の少女に対するリズに同様である。「みぞれにとっての希美」とは異なり,希実には,その場そのときの感情(希実→みぞれ)の完結は与えられない。それに完結を与えたのがあの抱擁だった。