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巫女論

フロイト的〈女性〉規定によれば,〈女性〉というものは,生誕の最初の〈性〉的な拘束(=〈同性〉である母親)から逃れようとして,異性としての男性か,男性でも女性でもない架空の対象を志向する。ここで,男性以外のものを対象として措定したとすれば,その志向対象とはどういったものなのか。先のフロイト的〈女性〉規定に基づくかたちで,吉本的に〈女性〉を定義すれば,それは,男性個体(ヘテロセクシャル)と女性個体(ホモセクシャル)という〈他者〉を排除したあとに残される対象とは〈自己幻想〉か〈共同幻想〉にほかならず,女性というのは,あらゆる排除のあとに〈性〉的なる対象を自己幻想に選ぶか,或るいは共同幻想にえらぶ存在である,としてそれを〈女性〉の本質と言う。〈巫女〉(ふじょ)にとってはあらゆる〈共同幻想〉が〈性〉行為の対象となりうる,それはつまり,彼女は共同幻想をじぶんの〈対なる幻想〉(=〈性〉的関係)の対象にできるということである。これは吉本が示した〈巫女〉の規定であった。

女性というものは,霊的なもの,スピリチュアルなものをより感じやすい性質があり,女性は胎児をその胎内に宿し産み育てるために,人々の依存心というものが集まる巫事(かんなぎごと)には,女性が適しているであろうという,という柳田国男(『妹の力』)のこの考えはもっともらしく聞こえるが,これに対して吉本は,こういった〈想像〉を捨てて巫女の成立を考えるならば,経済社会的な要因を見つけだすほかない,と言う。

ある共同的な幻想が成り立つには、かならず社会的な共同利害が画定されていなければならない。〈巫〉がすくなくとも共同の幻想にかかわるとすれば〈巫〉的人間が成立するには、かならず共同利害が想定されるはずである。だから〈巫〉的人間が男性であったか女性であったかということは、たんに〈巫〉を成立させる共同利害の社会的基盤が、男性を主体にする局面か、女性を主体にする局面かのちがいにすぎないのである。このような意味で〈巫女〉をかんがえれば、ただ男巫にたいして女巫だというにすぎないことになる。〈巫女〉が〈巫女〉であるべき本質はすこしもとらえられない。

『巫女論』(『共同幻想論』第四章)位置№1274

引用された〈巫女〉譚(『遠野物語拾遺』三四)において,〈蛇〉は娘を嫁に欲しい淵の主の遣いであった。このような設定はたんに〈巫女〉である老婆の創作ではなく,〈蛇〉がそういった遣いとして村に現れるというのは,村落で伝承された〈共同幻想〉である。この譚では〈蛇〉という共同幻想の象徴が,〈娘〉と「〈性〉的にむすびつけて」考えられている。

次の引用(『遠野物語拾遺』五一,五三)で,村民の,仏像にたいする信仰心性とその〈巫女〉のもつ心性にはそれほどの隔たりはなく,認識のちがいというものは,子どもたちが仏像で遊んでいるのを指して,粗末にしていると言うか,仏像も子どもたちとたのしく遊んでいると見るか,の違いであった。村に祀られている神仏像は,村民の共同幻想の象徴としては,神仏を粗末にしてはならないという聖なる禁制にほかならないが,巫女の〈性〉的な心性(神仏と巫女との相互関係にあらわれる心性)からは,子どもが仏像でおもしろがって遊んでいるならば,神仏のほうも面白がるといった「〈生きた〉対幻想の対象」としてあらわれる。祠堂に祀られている神仏像は,〈巫女〉にとっては,この段階ではとてもプリミティブな〈性〉としての対象だった。神仏像は〈性〉的関係を結ぶ〈共同幻想〉の物的象徴として未熟であり,だからこそ,本譚では〈対幻想〉は〈面白さ〉としてしか疎外されない。この〈巫女〉譚における「子供」というのは,その未成熟なさまを象徴するものとして登場する。

遠野物語拾遺』の〈巫女〉がじぶんの幻覚のなかで疎外するのは〈面白さ〉である。子供たちが面白がって仏像で遊んでいることに相互規定的な〈神仏〉のほうからする子供と遊ぶことの〈面白さ〉である。この巫女にとっては〈面白さ〉が至上の対幻想であり、共同幻想との〈性〉的関係でありうるのだ。そしてそういう言葉がつかえるとすれば、幻想の〈性〉的な対象が〈面白さ〉としてしか疎外されないのは、未熟な対幻想に固有なものだといえる。

前掲 位置№1380

吉本はニオラッツエ『シベリア諸民族のシャーマン教』を引用,読解し〈巫女〉譚をそれに対置させて言うには,〈巫女〉のばあい,シャーマン一般のような修業のような心的に苦しい過程を持つことなく,巫女は〈性〉的な対幻想の対象として村落の共同幻想を措定する,という幻想さえ持てばよい,と言う。村落共同体の共同利害(共同幻想)と〈家〉の共同利害(対幻想),その双方関係だけが〈巫女〉にとっては「現世的な矛盾」にすぎない。対して,シャーマンは自己幻想を共同幻想に融合するために,心的に〈逆立〉する架橋を飛び越える必要があり,シャーマンはこのとき,少なくとも,自己幻想と共同幻想との逆立(〈虚偽〉)は,彼個人の内部で消滅させる(=〈虚偽〉の克服)必要がある。

〈巫女〉にとって〈性〉的な対幻想の基盤となる〈家〉というものは,神社に居ようが,諸国を流浪しようが,つねに共同幻想の象徴と営む〈幻想〉の〈家〉であった。〈巫女〉は現実には〈家〉には定住しない,〈家〉から疎外された存在として,共同幻想の普遍性へと霧散していく。神社にいつく巫女と,諸国を流浪する巫女に分化するという,柳田国男折口信夫の言説について,巫女にその二択しか与えられてないのは,女性が現世的な〈家〉の体裁にかかわりなく,共同幻想を架空の〈家〉を営む〈異性〉(=〈性〉行為の対象)として,〈女性〉の本質的に,了解しているからだ。