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ゴーストワールドについての覚え書

今年になってからfollowingの整理を行いまして、creatorとかdesignerのほとんどのフォローを外してリストに入れたんですが、そんななかで久々にフォローしたのが鉢本(hatimoto)さんという方で、先月末にその方のイラストがわたしの目に留まったわけです。

ゴーストワールド』(01年 米)

高校を卒業したものの、いまだ進路も決めることなく不安定な心根のまま遊びほうけているイーニド(ソーラ・バーチ)とレベッカスカーレット・ヨハンソン)。ある日ふたりは、新聞の出会い広告欄に載っていた中年男シーモアスティーヴ・ブシェミ)をからかおうと呼び出して尾行するが、イーニドは次第に彼のことが気になり始め…。

あらすじだけ読んでみても、モラトリアムな十代の女の子が自分探しとか何かするおはなしだろうとなんとなくイメージできるんですが、あまり作品を手に取らない僕のフックに引っかかったhatimoto先生のゴーストワールド評(ツイート)とそのファンアート、そしてそれに引っ掛かった自分の直感を見過ごすことは出来なかった。で、DVDを借りに隣町まで行きました(こういうときにすぐ行動するような行動力はある)。カウンターで店員に「一本無料クーポンあるので旧作じゃなくて新作に使ったほうがいいですよ」とか言われたが、こっちは配信ない旧作見るためだけにわざわざレンタル会員登録しに来たんじゃい!と、心の中でシャウトしたのが先週でした。

tweetで言いたいことは大方言ったのですが、改めて感想を書いてみましょう。

イーニドとレベッカ

イーニドとレベッカの高校の卒業式シーンからはじまる本作ですが、イーニドとレベッカの持つあいつら全員同窓会てきなポーズが先ずはじめに示されるわけです。同年代の人たちがストーリーであげてる食べものとか観たもの、聴いたものとか、ほんとにそういったものにつまらなさを感じている私たちって感じ。たとえば、美術の授業で女の子がタンポンとティーカップを組み合わせて女性の権利を主張してます!みたいな作品を作ったり、それをベタ褒めする教師だったり、そういったウケのいいインテリジェントな営みをしている彼らにキョリを取ってる感じ、とてもグサッとくるのです。しかしながら、そういった「あいつら(以下略)」的な価値観で結ばれていたレベッカとイーニドは、つまらないあいつらにおさらばした今、互いの価値観の違いが露わになっていきます。レベッカはどんなにまわりが自分のセンスや感覚に合わないつまらない人間たちだとしても、そういったなかで働いて金を稼ぐのが私の生き方なんだと受け入れているのに対して、イーニドの感受性やセンスはそれを受け入れられない。映画館のバイトは即日クビになるし、適当に始めたヤードセールもなんだか無理だな…ってなる。そして、そんなイーニドにとってのたのしみは最近出会ったシーモアだった。

シーモア
イーニドとシーモア

イーニドがたまたま出会ったシーモアという男性はレコード蒐集が趣味のオタクで、彼女は世間からちょっとはぐれた彼の魅力にハマっていき、お互い時間を共有していくのですが、このさまはつまらないまわりからドロップアウトした僕・私がネットでfollowingを見つけてそこに居場所を見つけるようなTwitter的なものに少なからずオーヴァーラップしているように思います。彼女は、おなじく世間からはぐれてレコードというオタク趣味を大事にしている温厚なシーモアの、かといって横断歩道をのそのそ渡ってる歩行者に対して感情をさらけ出すような彼の突飛な性格を見つけて、そこに彼女はシーモアの人間としての魅力を見つけはじめます。彼のユーモラスな人間性をわかっているのは自分だけなんだと、そんな彼女の気持ちがわかります。

中年をとっくに迎えてるシーモアはレコードというオタクとしての核を持ち続けていました。対して、高校を卒業したばかりのイーニドは彼女の服装や髪型がつねに変わる(イーニドのオタクファッションが画面を持たせてるぐらいキマってました)ように、変幻的な彼女の感受性やセンスが一体どこにうけるのかわからないし、つまんないまわりの奴らにわかってもらおうとも思っていない。しかしながら、親友だったレベッカも、私が拒絶するような社会に出ていきそこに適合していくなかで、私だけが自分の世界に籠ったままでいる。そんな自分の世界をどこに開示できるのか。自分の居場所はいったいどこにあるのか、そんななか自分を開示して受け入れてくれる場所として見つけた(出会った)のがシーモアという自分の世界を大切にしているオタクだった。

二十代前後の女の子がおもしろそうなオタクのおっさんを見つけるというおはなしでもあるわけですが、01年製作の本作においてはイーニドとシーモアははなから人間関係を築いていくわけです。つまり、フラットなアイコンを持った者同士ではなくて、生身の人間同士で関係性を築いていく。だから、二人はセックスに至ってしまうしそういったヘテロセクシャルは不可避なものだった。イーニドのファッションがつねに変幻なものであるように、二十代前後の女の子なんてなにも掴めないわけです。彼女が求めていたのが人間同士の相思的な居場所だったのか、それともそういっためんどくさい人間関係が邪魔になってバスに乗って街を出たのか。けっきょくシーモアを捨てて街を出ていくエンドなのですが、私は、彼らが持ってしまった生々しい人間関係というのは生きていくうえで無視できないもので、そういった面倒さのない無臭でフラットな関係性のみに浸っていると人生がゆっくり溶けておわっていくように感じるのです。それでも私はイーニドとシーモアがなんちゃって同居生活してエンドするのをかすかに望んでいたし、イーニドがダイナーでフライドチキンを黙々と食ってるシーモアを驚かすシーンがとても好きだった。でも、そういった馴れ合いと男女関係は同一他者において両立しがたいものとして描かれているのではないか。

イーニドのような女の子が彼女の感受性やセンスをしっかりとパッケージしてアウトプットしてプロモーションしていって成功するのは、誰しもがきっとできることじゃないし、わたしたち(イーニド)はオタク(シーモア)とのフラットな共同幻想に居場所を見つけるか、あるいは他者とのヘテロな対幻想に身を置く他ない。そして、彼女はバスに乗り込んで街を出た。何故ならシーモアとのフラットな関係性が終わって(男女関係になって)しまったから。イーニドは彼女の目指すべきものを見つけて欲しいし、シーモアも良き伴侶を見つけて欲しい。イーニドにしろシーモアにしろ、各々かんたんに片付かない問題なわけで、そこから次第に弾力を失っていくのが現実の私たちであり、劇中の彼らなのかもしれないと、そう感じました。

……

あと、ゴーストワールドは劇伴が多少過多に感じたのですが、
ああいう映画において劇伴を意図的に排除した画面を流すのは山下敦弘の女子高生バンド以降なのかもしれません。教えてください、有識者の方。